よこすかキャリア教育推進事業
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女性は花束のようにリードするのがダンスのマナー

昭和三十五年ごろから続けていた社交ダンス。あまりに熱心だったから、プロへの誘いもありましたが、趣味として続けていました。定年退職と同時にアソシエイトの資格を取得したことから、退職金をつぎ込んで自宅をダンススタジオへと改装。ダンス講師として第二の人生を新たにスタートさせ、十三年がたちました。これは私のもう一つの夢でもありました。ダンス指導者を目指す講師も数多く巣立ちました。ダンスを楽しみたいご近所の奥様方との交流の場にもなっています。私自身の技術向上のため、週に一度、自分よりも若い講師だけれど、レベルは高く、改良されて海外から入ってくる新しい踊りを習っています。
女性は花束のように大切に扱い、リードする。男性は柱、女性はドアのイメージで、柱となる男性がドアの女性をしっかり支える。女性は男性を信頼し、身を任せて踊ることで見る者を圧倒させるダンスになるんです。

「将来に夢を残さない」病床で誓った夢の実現

ダンス講師になる前、定年まで勤めたトヨタで累計5千台の車を売りました。時代の後押しがあったとはいえ、それでも車は「宝物」だった時代。簡単には買ってもらえません。四十年間の営業時代は人に言えない努力や苦労、時には命を張った瞬間もありました。それでも、良いお客様に恵まれたのが、思い出のほとんどです。「一生懸命やっていると、見ていてくれる人がいるんだなと思います。」セールスになったのは、上司から「営業やってみないか?」の一言でした。メカニックながら社内販売介コンテストで、トップをとり続けていたことがきっかけでした。
ところが、元々はメカニック。技術者上がりの慣れない営業の仕事に、ストレスから胃潰瘍に。一年目で入院をしてしまったんです。
病床では不安から、いろんな思いが心をよぎりました。「将来に夢を残さない。夢を実現させてから、最後を迎えたい。」病気になったことで、人生を改めて考える転機にもなりました。

教育によっては将来、楽しみな子が出てくる

現場での子ども達は、スレたところが無く、素直だね。ただ、それだけに物事を深く考えなくなっているのかな?
昭和二十五年、焼け野原だった東京に、親の反対を押し切り、山梨から布団を背負って上京したのは、十五歳。今関わっている中学生たちの年頃だった。
最初に勤めたのは、謄写版印刷の会社。親へ仕送りをしながら、夜学に通っていました。働きながらでないと学校に行けなかった。仕事の休み時間を利用して、自動車免許を取りに通っていた時、実習で車の構造を学んだ事で車に興味を持ったのが、整備士になるきっかけでした。とにかく苦労した。それが当たり前だったから。今は、生活環境が良いから、教育によってはすごく将来楽しみな子が出てくると思いますね。豊かな時代だから、私たちの頃のような苦労はしなくてすむ代わりに、失敗を怖がっている子は多い気がします。どうしたらたくさんある職業の中から、たった一つの「自分の仕事」を選ぶのか、それは、大いに失敗や壁にぶつかり、苦労をし、それを乗り越えないと出会えないものでしょう。

社会に出ていない子ども達世間を知らないのは当たり前

私は二人の息子が中学生の頃、自分の仕事を見せた方が良いと思い、職場に連れて行きました。というのも、日曜日も祭日も仕事で、自分達と触れ合うことが少なく「父親は一体、何をしているんだろう?」と思っていたと思う。時には絵の得意な長男に、イベント用のポスターを書かせたり、洗車を手伝わせたりしました。今は学校で職場体験をさせてくれるから、もっと、親と話しをしてもらいたい。社会に出てない子ども達、世間を知らないのは当たり前ですから、家の手伝いもさせて欲しいですね。
私自身も、グループディスカッションでは、他のMTT同士と交流できることで、いい勉強をさせてもらっています。
私より若いMTTから、彼らの考えを聞くことや、世の中が今、どうなっているのか知る事は、すごくためになります。私も、目標を持ち続け、新たな事に挑戦しているまっただ中です。

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